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パリ五輪女子ケイリンで日本歴代最高の9位…太田りゆインタビュースポーツ報知
代表引退セレモニーで声援に手を振って応える太田(日本自転車競技連盟提供)

 8月のパリ五輪に出場した太田りゆ(30)=日本競輪選手会=は 、パリケイリンりゆインタビュー女子ケイリンで日本選手として初の準決勝に進出し9位と健闘した 。輪女今回 、で日スポーツ報知のインタビューに応じ、本歴初めて挑んだオリンピックの大舞台を振り返るとともに 、代最約8年間に及んだ競技者からの引退 、高のportugal national football team vs bosnia and herzegovina national football team lineupsそしてガールズケイリン選手としての今後について語った。9位(協力・日本自転車競技連盟)

 東京五輪での補欠選出という経験を経て、太田初めて立った夢の大舞台 。パリケイリンりゆインタビュー「競技人生の集大成」と位置付けたパリ五輪では 、輪女大きな経験を得ることができた 。で日

 「東京オリンピックではリザーブだっただけに 、本歴オリンピックに出たいという気持ちは誰よりも強かったかなと思う 。代最3年前に観客席から見ていて『あのステージに立ちたい』と思っていた景色を選手の立場から見られて 、高の本当にすばらしい景色だと思った 。9位real sociedad vs getafeすばらしい雰囲気をたくさん感じられたのもいい経験だったし、人生のすごく大きな財産になった」

 2019年のワールドカップ(香港)では女子ケイリンで銀メダルを獲得するなど、国際大会で結果を残してきたスプリンターにとっても 、やはり五輪は特別な場所だった 。

 「世界選手権もネーションズカップもワールドカップも数え切れないくらい出させてもらったけど 、やっぱりオリンピックは特別だった 。4年に一度 、全世界のアスリートが目指すだけあって緊張感は別格。周りの選手の集中度合いも違った。観客の歓声も拍手の量も、ほかとは格段に違う舞台だった」

 そんな中 、女子ケイリンでは日本勢歴代最高の9位  。足跡をしっかりと残した 。

 「ナショナルチームのサポートが完ぺきだったので 、今までで一番強い状態で臨めた 。あの日が一番自信があったし、敗退した準決勝のレース内容も、何もせずに負けたのではなく戦うべきところで戦って、本当に勝負して負けた。自分もあの日はすごく強かったけど 、やはりオリンピックという舞台ではみんなもすごく強かった。やることをやりきって全力を出せたレースだった」

 準々決勝進出を決めた敗者復活戦では、思わぬアクシデントも 。通常は残り1周で鳴るはずの鐘が鳴らず、太田がトップでゴールした直後に鐘が鳴り、そのまま1周 、全力でペダルをこぎ続けた 。

 「ゴールした瞬間はバッチリ差しにいっていて、あの瞬間はゴールだと思っていた。まさか残り1周でジャン(鐘)が鳴っていないとは思っていなかったから 、掲示板に『1』と書いてあったのを見ても『あれ 、私が間違っているのかな』と… 。とにかく何としてでも2着までに入りたかったから 、自分がミスしていた場合とかを考えると 、力を抜くことは考えられなかった」

 その後、準々決勝は突破したが、準決勝で敗退。翌日の女子スプリントでは1回戦の敗者復活戦で敗退した 。影響がなかったとは言い切れないだろうが 、言い訳にするそぶりはない 。

 「メダルを狙うならケイリンだと思っていたので 、そこが終わって気持ちが滅入っちゃった面はある 。スプリントの順位はよくなかったけど 、自分のトップ3に入るタイム 。目標の自己新記録は出せなくて残念だったけど 、決して自分のパフォーマンスが全く出せなかったわけではない。実力だったかなと思う」

 芸術、文化、ファッションが栄える“花の都”では、レース以外でも特別な経験を味わった。

 「自分のレースが終わった後に五輪マークが付いたエッフェル塔を見に行った。きれいだった 。今回は母親も来てくれていて、日本でしか見ることのない母親がエッフェル塔の下に立っているのを見て 、連れて来ることができてよかったと思った」

 このパリ五輪を最後に競技者としては引退。約8年間、袖を通した日本代表のユニホームを脱ぐ決意を表明した。

 「日本代表を続けるのは簡単ではなくて、練習や日々の生活でもかなり管理されることがある 。毎日ずっとルーチン化されたスケジュールの繰り返し。そんな修行僧みたいな生活に耐えられるだけの気持ちと体力が必要で 、私が頑張れるのはパリまでかなと思っていた  。また、競輪選手をちゃんとやっていきたい気持ちもあった。デビューしてから、月に2場所を走ることはほとんどなかったし 、賞金女王争いをする中でグランプリを目指してみたかった 。それに 、ちょうど30歳なので区切りのいいタイミングかなという理由もある」

 フランスから帰国した8月13日の夜には早速、平塚競輪場での「女子オールスター競輪」に出走  。15日の決勝で2着になった 。9月8日には「2024全日本選手権トラック」(静岡・伊豆ベロドローム)の開催中に行われた代表引退セレモニーに出席するなど、五輪後も忙しい日々を送る 。

 「オールスターではオリンピックから帰ってきた日の声援がすごかった 。『お疲れさま』『お帰り』『ありがとうね』とか声を掛けていただいて 、本当にやる気が出た。お客さんの声援がないと走れないと思うぐらい 、ありがたい。頑張らなきゃって気持ちが戻って来る。引退セレモニーは、みんな最後のレースをした後にしてもらうことが多いけど自分はオリンピックが最後だったのに 、わざわざやってくれてうれしかった」

 これからは競技の世界からガールズケイリンに戦いのメインステージが変わる 。G1タイトル、そしてガールズグランプリでの優勝を目指す。

 「早くタイトルを取ってグランプリ出場を決めたい。ただ 、まずは競輪選手として、どうやって戦っていくのかを見つけるのが今年の目標 。私は速い(スピードがある)ので、そこを武器にしたい 。競技ではギアの規制がないから重たいのを使えたけど、ガールズケイリンではギアが決まっている。脚力差を出していくために、そこに適応するためのトレーニングを見つけて実践していきたい  。来年からはグランプリでの優勝が目標」

 これからもファンのエールが、大きな支えになることは変わらない。最後は応援してくれる人たちへのメッセージで締めた。

 「ガールズケイリンの盛り上げ役になれるように頑張りたい 。日本代表じゃなくなって弱くなったとは絶対に言われたくない 。ナショナルチームに育ててもらった選手として恥じない 、強いレーサーでありたい。ファンの皆様には長い間 、競技者としてたくさん応援していただいて本当にありがとうございました 。これからは競輪選手として一から頑張ります。ちょっとミスっちゃうこともある選手ですけど、温かく応援してもらえたらうれしいです」

 ◇太田りゆ(おおた・りゆ)1994年8月17日 、埼玉県上尾市生まれ 、30歳。伊奈学園総合高卒業  。中学、高校では陸上部で中距離走に励み 、東京女子体育大進学後に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)へ第112期生として入学。同校在学中の2016年に自転車競技日本代表へ初選出。競輪では2017年7月に高松競輪場で  、デビュー場所での完全優勝を果たした 。師匠は早川成矢(埼玉・78期)。165センチ 。血液型B 。

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